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ハワイの古都ヒロを築いた明治人

Sunday, February 22nd, 2009
伊勢本久人
伊勢本久人

ハワイで最初に大きな町になったのは、ハワイ島のヒロでした。ホノルルも、まだ、小さな町だった頃に、1885年から始まった官約移民の日本人移民が大量にヒロに町の近くにある砂糖キビのプランテーションに何千人と移民してきたのです。そして、そのヒロの町を造った明治の大工たちが、たくさんいました。その中で、現在もハワイ島で一番大きな建築会社として、スバル天文台とか道路工事など、大きな仕事を請け負っている会社があります。伊勢本建築です。今回は、伊勢本建築の創立者である広島からの移民伊勢本久人が、どのようにハワイで 会社を作っていったかを振り返ってみます。明治30年1月8日に広島に生まれた久人は、1912年、先に来ていた父千根文と合流して、砂糖キビプランテーションで働き始めます。しかし、健康上の理由から、プランテーションを契約満期前に出て働くことを許されます。久人は、7年間石工コンクリートの会社で働いて、英語と輸入業について、詳しく学びます。前の上司と共同経営を試みたりしますが、うまくいきませでした。

1946年の津波とWailuku River Bridge
1946年の津波とWailuku River Bridge

久人は、自分で会社を作ってみますが、すぐに、政府の仕事を請け負うことが、一番利益が大きいことに気づきます。そこで、1926年に伊勢本請負会社を設立して大成功します。1938年にハワイ島群政府から請け負って作った鉄筋の橋は、二度の津波にも耐えて今もヒロの町にかかっています。戦前や戦後すぐの日系新聞には、いつも大きな伊勢本請負会社の広告が目につきます。真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争中は、伊勢本請負会社は押収され、久人は、ニューメキシコのサンタフェ日本人強制収容所へと連行されます。戦争に付け込んで、米国陸軍は、久人の所有していた建築資材、上質の建築機械や株などを没収しました。若い会社の従業員や技師たちは、みんな戦場での建築工事をするために工部部隊となって出兵してしまいまいした。しかし、久人の娘の婿で会計をしていた二世のシギ ユキオが、誠実に伊勢本請負会社の仕事を続けておいてくれました。

 現在のWailuku River Bridge
現在のWailuku River Bridge

1945年に強制収容所から、釈放されて帰ってきた久人は、請負会社を初めからやり直しました。陸軍が使っていた建築機会は壊れてしまい、使用料も最低限しか支払われませんでした。しかし、その後は、親類や友人たちの協力で、伊勢本建築としてハワイ島での建築事業に大きく貢献していくことになります。今では、大きな工事現場ではどこでも、伊勢本建築のトレードカラー、黄緑をしたトラックやブルドーザーが目に止まります。1967年からは、息子のラリー伊勢本が社長を引き継ぎました。現在は、3世のレスリー伊勢本の時代です。

米国最強の二世部隊を作った明治の武士道

Saturday, September 20th, 2008

明治の日本人が作ったハワイに学ぶ (第三話)

布哇ジャパニーズセンター長 本田正文

さて、今日の話は、ホノムの一世リーダーサムライ曽我部四郎牧師などハワイに移民した明治の一世たちがどれだけ、あの第二次世界大戦の米軍日系二世部隊が生みだす原動力になったかをお話しましょう。

曽我部四郎牧師 1894年

ハワイ島ホノムで活躍した曽我部四郎牧師は、1865年(慶応元年)に福岡県に生まれます。1894年明治27年に先にハワイで活躍していた岡部次郎牧師に誘われて、京都の同志社大学を卒業して、すぐにホノルルのマキキ教会を創立する奥村多喜衛より一年早くハワイでキリスト教の伝道と移民たちを助けるためにハワイ島ホノムにやってきました。ホノム(保野武)義塾は、1897年、明治30年の二月に曽我部四郎牧師とその妻しかの二人でホノムに作られました。同じころ、ホノルルでは、奥村多喜衛牧師の奥村ホームと日本人学校もできていました。ハワイの移民の子供達に明治の日本にできた学校、熊本県の徳富蘇峰の大江義塾と同じレベルの教育をしようとしたのです。サムライの魂と西洋文明を若い二世たちに教えるために宿舎を作り貧しいキビ労働者の子供(二世)たちのための教育に生涯を捧げたのです。1903年には、ホノムに日本人二世たちのホノム義塾バンドを作ったりしたそうです。立派な服装でヒロでもよく演奏したことが古い新聞に載っています。1924年に日米摩擦最大の差別法案が米国議会を通過します。あの排日移民法です。日本人だけは、米国に移住移民できないという日本蔑視の法案がカリフォルニアを中心に起きていた反日運動の中で作られます。そんな時に、曽我部牧師は、当時のハワイ島の町ホノム、ヒロ、ホノカア、コナなどで講演会をして、二世たちは、この最悪の日米摩擦の中で、どう生きるべきかを説きました。1925年に曽我部牧師は、次のように二世たちはハワイ島ヒロ市の大和座での演説会で、二世の生きる道を示します。

布哇島の二世の442部隊、イタリア戦線1943年

「関が原の戦いにおける真田父子兄弟の態度を紹介し、日米万一の事ある時に際し布哇(ハワイ)生まれ諸君此処に至っては、真田父子兄弟が敵見方となった如く、最も武士道的に忠誠を尽くして敵味方となるべきである。。。星条旗に忠なれ、日章旗に忠なれ。。。君たちは、布哇生まれ、生まれながらにして、米国人である。義、正に米国の為に戦うへよ。。。大日本帝国の忠良なる臣民よ。義勇公に奉じ以って天壌無窮の皇運を扶養すべし。。。いざ、諸君、布哇生まれの諸君と手を握り合って長き別れを告げ、日本へ帰る。我々は、父子兄弟親友も一旦は、敵味方とならなければならない。。。。よしんば余にして我が師弟の銃弾に倒れるとも、彼等が星条旗の下に奮闘したるその忠勇義烈に対して賞賛の辞を捧ぐべきである。」(「布哇毎日」1925年4月14日)

アメリカを変えたハワイの日本人

Wednesday, September 17th, 2008

明治の日本人が作ったハワイに学ぶ (第二話)

布哇ジャパニーズセンター長 本田正文

ハワイ島パホア日本語学校1920年代

ハワイと言えば、ワイキキとかホノルルという時代がだんだんハワイには、たくさん島があって他の島も行ってみたいという時代になりました。特に火山があって有名だった割には知られていなかった一番おおきなハワイ島に足をのばす日本人観光客も増えています。そのハワイ島には、ワイメアに桜が2月に咲きます。最初の桜は、1953年に布哇(ハワイ)報知の創立者である牧野フレデリック金三郎氏の死を悼んで植えた記念樹の桜です。つまり、1952年、アメリカの憲法を改正させて、一世の日本人も、アメリカ市民権がもらえるようになった次の年です。まずは、戦後の日本からたくさんの日本人花嫁を連れて帰った日系アメリカ兵を中心にまず、妻達への市民権の道が作られ、二世が中心になって、戦争中はアメリカ政府によって強制収容所に入れられたりした一世達がアメリカ市民になれるように憲法を改正したのです。そのおかげで、1952年からは、中国人も韓国人もどのアジア人もアメリカ市民になれるようになったのです。

ハワイ島にて大槻幸之助(右から二人目)

そして、牧野氏と言えば、第一次世界大戦でアメリカ兵になった一世日本人たちにアメリカ市民になる道を示した人であり、日本語学校がアメリカのカリフォルニア州やハワイ属州政府によって消されようとした時に二世や一世の親のために立ち上がったハワイの日本人パイオニアのリーダーでもあります。1920年には、ハワイではすでに20,651人の二世が英語学校(ハワイの公立学校)の後、毎日日本語学校に通って「修身」や日本語を勉強していました。1920年と1923年に続けて日本語学校へ圧力をかける法令が州議会を通過しました。それに対してハワイ属州政府を相手に訴訟を起こし、アメリカ最高裁判所にて1927年に勝訴し、日本語学校や他の外国語学校の権利を守ったのです。もっと、移民初期の時代、1885年にすでにキビ畑で労働契約違反をめぐってハワイ島パパイコ耕地で仙台出身大槻幸之助ほか15名がストをしています。

さらにハワイの一と二世たちは、ハワイをアメリカの州にしたくなかったアメリカ議会を動かして、1959年(昭和34年)にハワイを50番目の州にしたのです。東洋系市民が多いために立州は不可能と思われていたハワイをアメリカ合衆国の州にしたのです。州になるや、合衆国下院議員に井上ダニエル健氏が、ハワイ州議会上院議員、25名中13名、下院議員、51名中22名が二世議員になった。1961年には、米国上院議員に井上議員が下院には松永スパーク正行氏が当選し、ますます、アメリカ議会へバイリンガルの二世たちが進出してアメリカ改善の原動力となっていった。

ハワイへ日本民族の大移動

Sunday, September 14th, 2008

明治の日本人が作ったハワイに学ぶ (第一話)

布哇ジャパニーズセンター長 本田正文

今は、明日がわからない不安な時代と言う人もいますが、実は、現代の日本人は「現在」がどうやってできてきたかを知らないから、よりよき「明日」をどう作ったらいいのかわからいのかもしれません。ハワイで見えてくる明治の日本人による日本の国際化と人間や町作りを知ることで、現在がもっとはっきりと見えてくるのではないでしょうか。

ヒロの町 B.J.Baker撮影 1924年
ヒロの町 B.J.Baker撮影 1924年

ハワイには、現在を作った日本の過去が残っています。1868年、140年くらい前に153人が、明治維新の前にハワイへと鎖国の日本から海外へと旅立ったのです。たった153人の日本人先駆者達も、日本、ハワイ、アメリカを変える力となっていきます。例えば、広島出身の鈴木国蔵は二度目の妻としてオランダ人と結婚して資金を得て1880年代にハワイ島(ハワイ州で一番大きい島)にあるヒロの町にお店を開きます。そこへ1885年から始まるハワイ王朝政府と明治政府の協定によって始まった官約移民が毎年何千人も押しかけてきてヒロを近代的な町にしてしまいます。

ハワイ全島では、明治27年までに29、139人がハワイに渡ってきました。ホノルルより前に、当時の横浜にも負けない港町がハワイ島のヒロにできてしまいます。そこで稼いだ鈴木国蔵は広島に大金を持って帰ります。今でも宮島に大きな鈴木国蔵の灯篭が当時のハワイからの経済援助の大きさを物語っています。実は、日本はこれまでにハワイに行った明治の移民たちからかなりの経済援助を受けてきたことは、明治、大正、昭和の移民の歴史を調べればわかります。ハワイの先駆者たちはお金だけでなく、現代のアメリカや日本を変え、日米共存を可能にした戦前と戦後支えた「知恵」も残していきました。

元年者の子供、二世、にアメリカで初めての二世弁護士になった小澤健三郎アーサーがいます。元年者移民小澤金太郎夫妻のハワイ生まれの二世です。1907年日本はやっと日露戦争で勝ち、世界の列強たちに仲間入りしたばかりのころに、すでに大国だったアメリカの弁護士になったのです。更に、元年者の桑田松五郎の孫、三世、は、ハワイ島郡長になり、1963年にハワイ島と伊豆大島との姉妹島提携しに努力しました。日米間の町で増えている姉妹都市の魁も明治のハワイへの開拓者たちの子孫なのです。

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