Preserving the past, to build the future.
昨日を保存して、明日を作る人を育てる

History of Isemoto Constructing Company

November 15th, 2008

Hisato Isemoto, the founder of Isemoto Constructing Company, was born on January 8, 1897 in Hiroshima, Japan. He came to Hilo on July 4, 1942, at the age of 15, with his mother, Tama. His father, Sannenmon, had come earlier to Hawaii, and was working for the sugar plantation. Hisato joined his father at the plantation, but after about 6 months he was permitted to leave the plantation because of a back problem.

Hisato found a job with masonry contractor where he stayed for about 7 years, and learned the trade well. He was then invited to join a partnership with his boss and another person. The partnership fizzled after a couple of years when that person embezzled the partnership funds, and disappeared.

Hisato then started his own business and continued to do private jobs. However, he soon realized that getting government projects was the way to grow. In 1926, he incorporated the business, and Isemoto Contracting Company, Ltd was born. And the future looked brighter.

The Company was doing well over the ensuing years. However, disaster struck on December 7, 1945. He was confirmed, for the most part, in Sante Fe, New Mexico. To aggravate things, the U.S Army commandeered Isemoto’s better equipment and stock material for the “war effort”. The younger employees left to go off to war, or to work for the U.S Corp of Engineers to do military construction. Civilian jobs became scarse. Yukio Shiigi, Hisato’s son-in-law, the company estimator and bookkeeper, faithfully kept the business together although on a small scale.

Arther, the oldest son, was in college on the Mainland when the war started. Larry, 2nd son and 5th child among 6 daughters and 3 sons, was in the 8th grade. Through out the war years, whenever school was not in session. Larry worked for the company, doing custodial and other incidental jobs. Soon he advanced to help the carpenters and masons, or driving trucks, and operating small equipment.

After Hisato’s return from the internment camp in 1945, at age 48, it was like starting all over again. The equipment returned by the army were run down, and the payments for them were minimal. With the help of relatives and friends, Hisato managed to jump start the business and put the war years behind him. Soon, the construction climate improved, and Isemoto Constructing Company was getting its “share” of work again.

In 1967, Hisato turned over the responsibility of the company to Larry. Hisato never really retired for he was always around, but Larry feels he was much more relaxed and calm. In 1972, after a brief illness, Hisato passed away at age 75.

Under Larry’s tenure, and as opportunities grew, his first hire, in 1970, was his younger brother, Toshi, who was then the head of the Teo. H. Davis Home Planning Dept. Then Bryan Tomoyoshi came on board in 1972. He was followed by Jerry Egami in 1980, and who now heads the Kona branch office. Then came Lester Sakamoto, CPA, in 1983.

Isemoto’s construction activities have reached into every corner of the Big Island, plus a top Manua Kea and Manua Loa. Projects included government building such as the Afook Chinen Arena, Hiro’s main basketball arena, the rainbow bridge across Wailuku River, schools, hospital, industrial and commercial buildings, roads, bridges, sewer and water systems, etc. The company also had a one year experience on Kauai doing Hurricane Iniki repair work.

Traditionally, employment in the construction industry has its sharp up and downs. In 2007, Isemoto had almost 400 employees at its peak. Today, in mit 2008, there are about 250.

Larry retired from the company in 1993, and was followed in the presidency by his younger brother, Toshi. Unfortunately, Toshi’s tenure lasted only 5 years when he passed away in 1009 due to an illness. Lesli, Toshi’s son, became the President, and the 3rd generation to lead Isemoto Contracting Co. Leslie had already been in the company for about 15 years, holding various capacities within the company from apprentice carpenter, to office management, to equipment management, to estimating and project management.

Isemoto Contracting Co. was one of the earliest supporter of the Hawaii Japanese Center with monetary donations, as well as with the loan of construction equipment and tools during the renovation of the structure.

The Voice of HIROSHIMA, Before and After A-Bomb Exhibition

October 19th, 2008
The Voice of HIROSHIMA

We are having an exhibition, The Voice of HIROSHIMA, Before and After A-Bomb, at Hawaii Japanese Center.

September 28- October 31 9:30 a.m - 12:30 p.m at Hawaii Japanese Center 751 Kanoelehua Ave, Hilo

Please call Hawaii Japanese Center at 934-9611 for more information.

You can see the detail from the following pdf file!
The Voice of HIROSHIMA Before and After A-Bomb Exhibition (PDF:3.4MB)

Hiroshima Fair 2008

October 8th, 2008
Hiroshima Fair 2008

We, Hawaii Japanese Center, would like to advertise the event coming up soon. It is Hiroshima Fair 2008 A food Event.

The information is follows:
Date: Oct 18 (Sat) - 19(SUn), 2008
Time: 100:00AM to 4:00PM
Venue: Waimea Cetnter Countryard (65-1158 Mamalahoa Hwy.Kamuela, HI 96743)

Sponsored by KONA-KOHALA CHAMBER OF COMMERCE and HATSUKAICHI CHAMBER OF COMMERCE AND INDUSTRY

You can join the fair and sample authentic regional foods and snacks of Hiroshima Japan. Members from Japan will be doing live food demostrations of popular dishes that will surely be crowd pleaser!

You can see the detail from the following pdf file!
Hiroshima Fiair 2008 A Food Event(PDF:3.7MB)

1/8 KHBC Radio by Masafumi Honda HJC

October 4th, 2008

平成18年1月8日 日曜日, 今年最後の「考えさせられた問題」の時間です。布哇島ヒロにあります布哇ジャパニーズセンターが布哇のみなさに贈ります。早いものです。今年も、もう一週間たってしまいました。

先週は、「元年者の孫が結んだ島と島の縁」というお話でした。東京の一番大きい島、伊豆大島とハワイの一番大きい島、ハワイ島が、姉妹島となったのは、深い縁があったからです。ハワイの10倍の人口の東京、そして、ハワイ島は、伊豆大島の10倍の人口と、とても不思議な関係なのです。1960年といえば、まだ日本が独立してまもなくです。つまり、3年前くらいまで、日本は占領されていたのです。アイゼンハワー大統領は、戦後の日本とアメリカの関係を前のように友好関係に戻すには、姉妹都市とか姉妹町などを作るしかないと発表したくらいです。そんな時代にできたのが、伊豆の大島とハワイ島の縁です。それを結んだのが、元年者桑田松五郎の孫、三世のトーマスクック市長さんだったのです。伊豆大島も大都会の東京の町となって50年だそうです。50周年を記念してのハワイ島への町長さんと115名の親善グループです。1月19日木曜日 Janurary 19 Thursdayには、ハワイジャパニーズセンターにて、朝の10時に伊豆大島とハワイ島の親睦を深めるために、古いハワイの旗をクック婦人にお返しするそうです。クック市長が44年前に伊豆大島に姉妹島を記念して伊豆大島においていった古いハワイの旗。その後、名古屋の明治村博物館に保存されてありました。クック婦人はその旗をセンターに寄付して、センターにある他の松五郎さんの写真や所持品とともに保存されることになります。ハワイ島の一世二世のあしあとを守るセンターの責任は重大です。これからも、みなさんのサポートをお願いします。

さて、今日の話は、「縁の下の力もち」という話です。

みなさんは、縁の下の力持ちという日本のことわざをしっていますか。縁の下というのは、日本の家の縁側のしたにもぐると、家のしたに2フィート以上の空間があります。下の覗く、どの日本の家も、たくさんの柱が家をささえているのが見えます。広の家もたいていもちあげられているので、わかりやすいでしょう。柱がないと家は、倒れます。柱は、黙ってじっと家を支えているわけです。水をくれとか、ありがとうと言ってほしいとか、言いません。誰にも見えないところで、じっと家をささえているのが、縁の下の柱です。縁の下の力持ちというのは、そういう柱のように見えないところで、みんなのためにがんばっている人とか何かを支えて生きている人のことです。ハワイにもそういう人たちがたくさんいます。ボランテアということばは、まさに縁の下の力持ちの人たちということです。

阿部三次さん

誰からも、頼まれないで、自分から、他の人のために手伝うけど、御礼を期待していないのです。前にも一度日本で有名な作家であり、農村の指導者であった宮沢賢治さんは、縁の下の力持ちです。ハワイにもたくさんいました。阿部三次 (Sanji Abe)さんも、そうです。誰に聞いても安部三次さんは、いい人だったといわれます。みんな助けてもらったようです。でも、安部さんは、黙って助けてあげたようです。

戦争が始まって、安部三次さんも、ホノルルのサンドアイランド、砂の島に作られた収容所に入れられました。そこで、黙ってパパイアをみんなのために植えて毎日育てたそうです。初めは、みんなに馬鹿にされていたそうです。でも、長く収容所に入れられていると、おなかもすくし、パパイアも食べたくなります。みんながそうなるのを知っているかのようにパパイアを育てたのが安部三次さんです。大久保さんも、1962年の伊豆大島とハワイ島の姉妹島や津波の助成金を日本政府からもらってくるなど、影でいろいろと苦労したみたいです。小さい体で、がんばったみたいです。そういうところは、さすが大久保さんと思います。

1924年より前から二世が伏見の宮奨学金でアメリカの大学で勉強できるようにがんばったのも、たくさんの一世たちです。そういう縁の下の力持ちの一世たちが、いなければ、たくさんのりっぱな二世弁護士や政治家や医者や先生は生まれなかったでしょう。二世たちにもたくさん縁の下の力持ちがいます。命をかけて、アメリカのため、戦かった100大隊や442部隊や通訳兵MISや機械工部部隊など、さまざまな二世による最強のアメリカ部隊がたくさん第二次世界大戦を早く終らせることに貢献しました。そして、たくさんのアメリカ兵や日本兵やサイパンや沖縄や本土の市民たちの命を救ったのもバイリンガル二世アメリカ兵たちです。戦後は、日本人の親や親類のために、日本のために見えないところで、日本の独立や発展を援助したのも、一世や二世たちです。

今のハワイにも縁の下の力持ちは、たくさんいます。津波の時計台をそうじしたり、ペンキ塗ったりしている人たち。お寺や大学の庭を自分の庭のようにめんどうみているボランテアたち。おかげさまで、ハワイジャパニーズセンターにもたくさんの縁の下の力持ちがいます。

毎日、センターでそうじしたり、電話にでたりする人。重たい材木を運んだり、ペンキ塗ったり、壁板を張ったり、大工したりする人。時々日本から来ては、資料を整理したり、ハワイの二世三世をインタビューしてくれる人。センターで何か集まりがある時には、どこからともなく、おいしいものを作ってさしいれしてくれる人。私は、日本語の「さしいれ」という言葉がすきです。何かみんなで、何かしているときに手伝えないけど、「これを飲んで、がんばって。」とか「これでも、食べて。」とか飲み物食べ物をおいていく人。こういう食べ物を「さしいれ」といいます。放課後学校に残って、みんなのために何かをしている生徒たちがいると先生が子供たちに「さしいれ」と言ってまんじゅうやたこやきをくれたのを覚えています。縁下の力持ちを支える食べ物が「さしいれ」かもしれません。

来週は、伊豆の大島から、116人のお客さんがこられます。まさにハワイ島のお客さんです。みんなで、歓迎しましょう。1月17日の夜は、25ドルかかりますが、ヒロハワイアンホテルで、一緒にお食事です。親睦会。そして、一月19日には、ハワイジャパニーズセンターにて、朝の10時から 伊豆の大島から100人以上の人たちが、ハワイ島と伊豆大島の姉妹島の友情を深め、伊豆大島とハワイ島との交流を祝う式典があります。これは、無料です。きがるに来てください。きっと伊豆大島のみなさんも、一人でも多くのハワイ島の人たちに会いたいと思っておられることでしょう。

ライマン美術館にて本田正文による講演がありました

September 21st, 2008

9月16日ライマン美術館にて、ハワイジャパニーズセンターのセンター長である本田正文氏による講義がありました。テーマは、日系二世がどのように作られたか、でした。

Masa Honda is lecturing in lyman museum
講演中の本田正文氏

講義では、ハワイジャパニーズセンターの「昨日を保存して、明日を作る人を育てる」 という哲学を、すばる望遠鏡の研究している星の例を用いて、歴史を研究していくことの意義を説明しました。つまり、今私たちが見ている星は、何年もの長いときをかけて地球に届くのであって、そこから今や将来を研究していくことが重要であるのと同じように、ハワイジャパニーズセンターの行っているハワイ日系移民の歴史から、彼らの文化や習慣を学ぶことが、私たちがこれから生きていくために必要な人を作るということでした。

講演では、明治元年者から官約移民の歴史を説明するとともに、一世が二世を育てるに当たって、重要な役割を果たしたことを説明しました。そこでは、日本語学校の設立や、当時政治に興味の無かった二世に、政治の世界に進むことの重要性を伝え、奨学金の仕組みを作るなど、一世の先見の明があったを説明しました。

また、日本人初めての米国弁護士や、日系人初めてのハーバード大学卒業に関して、一般的に知られている情報は誤りで、本当は次のようであるというトリビアも説明がありました。

日系移民最初の弁護士は、元年者二世の小澤健三郎Aurtherという方で、1907年に一年でミシガン大学法学部を卒業したそうです。彼は自費で卒業したそうですが、上記にある一世の作った奨学金の仕組みで卒業した人は、以下のようになっています。

  • 1919年にシカゴ大学法学部 築山長松ウイルフレッド 一九二四年にハワイにて弁護士に
  • 1921年にウイスコンシン大学経済学部 鈴木時太郎
  • 1922年にワシントン大学入学、ハーバード大学に転校、政治学 森分謙一
  • 1924年にシカゴ大学入学、ハーバード大学に転校、法学部 丸山正二
  • 1925年にオベリン大学、ハーバード大学に転校、法学部 島村佳徳

また、日本と米国の間で戦争が起きる前からも、一世は最悪の事態を考え、戦争が起きた際には、武士道の考えに基づき、ハワイで生まれ、米国で育った二世は、米国に奉仕するべきであるという考えを伝えていたそうです。より早く戦争を終結させ、どちらが勝とうが援助し合う必要があると説いたそうです。このため、本土の日系移民よりもハワイの日系移民が戦争に対して、パニックにならずに対処できたとのことでした。また、戦後、日系移民たちから日本にたくさんの支援もありました。

このように、一世の先見の明によって、100大隊や442部隊などで活躍する日系移民が後に、ハワイでの政治にも強く影響力を与えるようになっていき、現在に至ったとのことでした。

受講生の中には、実際に自分は442部隊の一員として参加したが、妹が収容所に入っていた人がいるなど実際に生きた証人たちも参加していました。

また、日本の戦争での行為を許せない人たちには、どうしたらいいか、という質問に対し、本田氏は、戦争に関しては、なぜそれが起こったか、という理由や文脈を学ぶ必要があるといった説明がありました。

米国最強の二世部隊を作った明治の武士道

September 20th, 2008

明治の日本人が作ったハワイに学ぶ (第三話)

布哇ジャパニーズセンター長 本田正文

さて、今日の話は、ホノムの一世リーダーサムライ曽我部四郎牧師などハワイに移民した明治の一世たちがどれだけ、あの第二次世界大戦の米軍日系二世部隊が生みだす原動力になったかをお話しましょう。

曽我部四郎牧師 1894年

ハワイ島ホノムで活躍した曽我部四郎牧師は、1865年(慶応元年)に福岡県に生まれます。1894年明治27年に先にハワイで活躍していた岡部次郎牧師に誘われて、京都の同志社大学を卒業して、すぐにホノルルのマキキ教会を創立する奥村多喜衛より一年早くハワイでキリスト教の伝道と移民たちを助けるためにハワイ島ホノムにやってきました。ホノム(保野武)義塾は、1897年、明治30年の二月に曽我部四郎牧師とその妻しかの二人でホノムに作られました。同じころ、ホノルルでは、奥村多喜衛牧師の奥村ホームと日本人学校もできていました。ハワイの移民の子供達に明治の日本にできた学校、熊本県の徳富蘇峰の大江義塾と同じレベルの教育をしようとしたのです。サムライの魂と西洋文明を若い二世たちに教えるために宿舎を作り貧しいキビ労働者の子供(二世)たちのための教育に生涯を捧げたのです。1903年には、ホノムに日本人二世たちのホノム義塾バンドを作ったりしたそうです。立派な服装でヒロでもよく演奏したことが古い新聞に載っています。1924年に日米摩擦最大の差別法案が米国議会を通過します。あの排日移民法です。日本人だけは、米国に移住移民できないという日本蔑視の法案がカリフォルニアを中心に起きていた反日運動の中で作られます。そんな時に、曽我部牧師は、当時のハワイ島の町ホノム、ヒロ、ホノカア、コナなどで講演会をして、二世たちは、この最悪の日米摩擦の中で、どう生きるべきかを説きました。1925年に曽我部牧師は、次のように二世たちはハワイ島ヒロ市の大和座での演説会で、二世の生きる道を示します。

布哇島の二世の442部隊、イタリア戦線1943年

「関が原の戦いにおける真田父子兄弟の態度を紹介し、日米万一の事ある時に際し布哇(ハワイ)生まれ諸君此処に至っては、真田父子兄弟が敵見方となった如く、最も武士道的に忠誠を尽くして敵味方となるべきである。。。星条旗に忠なれ、日章旗に忠なれ。。。君たちは、布哇生まれ、生まれながらにして、米国人である。義、正に米国の為に戦うへよ。。。大日本帝国の忠良なる臣民よ。義勇公に奉じ以って天壌無窮の皇運を扶養すべし。。。いざ、諸君、布哇生まれの諸君と手を握り合って長き別れを告げ、日本へ帰る。我々は、父子兄弟親友も一旦は、敵味方とならなければならない。。。。よしんば余にして我が師弟の銃弾に倒れるとも、彼等が星条旗の下に奮闘したるその忠勇義烈に対して賞賛の辞を捧ぐべきである。」(「布哇毎日」1925年4月14日)

アメリカを変えたハワイの日本人

September 17th, 2008

明治の日本人が作ったハワイに学ぶ (第二話)

布哇ジャパニーズセンター長 本田正文

ハワイ島パホア日本語学校1920年代

ハワイと言えば、ワイキキとかホノルルという時代がだんだんハワイには、たくさん島があって他の島も行ってみたいという時代になりました。特に火山があって有名だった割には知られていなかった一番おおきなハワイ島に足をのばす日本人観光客も増えています。そのハワイ島には、ワイメアに桜が2月に咲きます。最初の桜は、1953年に布哇(ハワイ)報知の創立者である牧野フレデリック金三郎氏の死を悼んで植えた記念樹の桜です。つまり、1952年、アメリカの憲法を改正させて、一世の日本人も、アメリカ市民権がもらえるようになった次の年です。まずは、戦後の日本からたくさんの日本人花嫁を連れて帰った日系アメリカ兵を中心にまず、妻達への市民権の道が作られ、二世が中心になって、戦争中はアメリカ政府によって強制収容所に入れられたりした一世達がアメリカ市民になれるように憲法を改正したのです。そのおかげで、1952年からは、中国人も韓国人もどのアジア人もアメリカ市民になれるようになったのです。

ハワイ島にて大槻幸之助(右から二人目)

そして、牧野氏と言えば、第一次世界大戦でアメリカ兵になった一世日本人たちにアメリカ市民になる道を示した人であり、日本語学校がアメリカのカリフォルニア州やハワイ属州政府によって消されようとした時に二世や一世の親のために立ち上がったハワイの日本人パイオニアのリーダーでもあります。1920年には、ハワイではすでに20,651人の二世が英語学校(ハワイの公立学校)の後、毎日日本語学校に通って「修身」や日本語を勉強していました。1920年と1923年に続けて日本語学校へ圧力をかける法令が州議会を通過しました。それに対してハワイ属州政府を相手に訴訟を起こし、アメリカ最高裁判所にて1927年に勝訴し、日本語学校や他の外国語学校の権利を守ったのです。もっと、移民初期の時代、1885年にすでにキビ畑で労働契約違反をめぐってハワイ島パパイコ耕地で仙台出身大槻幸之助ほか15名がストをしています。

さらにハワイの一と二世たちは、ハワイをアメリカの州にしたくなかったアメリカ議会を動かして、1959年(昭和34年)にハワイを50番目の州にしたのです。東洋系市民が多いために立州は不可能と思われていたハワイをアメリカ合衆国の州にしたのです。州になるや、合衆国下院議員に井上ダニエル健氏が、ハワイ州議会上院議員、25名中13名、下院議員、51名中22名が二世議員になった。1961年には、米国上院議員に井上議員が下院には松永スパーク正行氏が当選し、ますます、アメリカ議会へバイリンガルの二世たちが進出してアメリカ改善の原動力となっていった。

ハワイへ日本民族の大移動

September 14th, 2008

明治の日本人が作ったハワイに学ぶ (第一話)

布哇ジャパニーズセンター長 本田正文

今は、明日がわからない不安な時代と言う人もいますが、実は、現代の日本人は「現在」がどうやってできてきたかを知らないから、よりよき「明日」をどう作ったらいいのかわからいのかもしれません。ハワイで見えてくる明治の日本人による日本の国際化と人間や町作りを知ることで、現在がもっとはっきりと見えてくるのではないでしょうか。

ヒロの町 B.J.Baker撮影 1924年
ヒロの町 B.J.Baker撮影 1924年

ハワイには、現在を作った日本の過去が残っています。1868年、140年くらい前に153人が、明治維新の前にハワイへと鎖国の日本から海外へと旅立ったのです。たった153人の日本人先駆者達も、日本、ハワイ、アメリカを変える力となっていきます。例えば、広島出身の鈴木国蔵は二度目の妻としてオランダ人と結婚して資金を得て1880年代にハワイ島(ハワイ州で一番大きい島)にあるヒロの町にお店を開きます。そこへ1885年から始まるハワイ王朝政府と明治政府の協定によって始まった官約移民が毎年何千人も押しかけてきてヒロを近代的な町にしてしまいます。

ハワイ全島では、明治27年までに29、139人がハワイに渡ってきました。ホノルルより前に、当時の横浜にも負けない港町がハワイ島のヒロにできてしまいます。そこで稼いだ鈴木国蔵は広島に大金を持って帰ります。今でも宮島に大きな鈴木国蔵の灯篭が当時のハワイからの経済援助の大きさを物語っています。実は、日本はこれまでにハワイに行った明治の移民たちからかなりの経済援助を受けてきたことは、明治、大正、昭和の移民の歴史を調べればわかります。ハワイの先駆者たちはお金だけでなく、現代のアメリカや日本を変え、日米共存を可能にした戦前と戦後支えた「知恵」も残していきました。

元年者の子供、二世、にアメリカで初めての二世弁護士になった小澤健三郎アーサーがいます。元年者移民小澤金太郎夫妻のハワイ生まれの二世です。1907年日本はやっと日露戦争で勝ち、世界の列強たちに仲間入りしたばかりのころに、すでに大国だったアメリカの弁護士になったのです。更に、元年者の桑田松五郎の孫、三世、は、ハワイ島郡長になり、1963年にハワイ島と伊豆大島との姉妹島提携しに努力しました。日米間の町で増えている姉妹都市の魁も明治のハワイへの開拓者たちの子孫なのです。

751 Kanoelehua Avenue Hilo, Hawaii 96720
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