アメリカを変えたハワイの日本人
明治の日本人が作ったハワイに学ぶ (第二話)
布哇ジャパニーズセンター長 本田正文
ハワイと言えば、ワイキキとかホノルルという時代がだんだんハワイには、たくさん島があって他の島も行ってみたいという時代になりました。特に火山があって有名だった割には知られていなかった一番おおきなハワイ島に足をのばす日本人観光客も増えています。そのハワイ島には、ワイメアに桜が2月に咲きます。最初の桜は、1953年に布哇(ハワイ)報知の創立者である牧野フレデリック金三郎氏の死を悼んで植えた記念樹の桜です。つまり、1952年、アメリカの憲法を改正させて、一世の日本人も、アメリカ市民権がもらえるようになった次の年です。まずは、戦後の日本からたくさんの日本人花嫁を連れて帰った日系アメリカ兵を中心にまず、妻達への市民権の道が作られ、二世が中心になって、戦争中はアメリカ政府によって強制収容所に入れられたりした一世達がアメリカ市民になれるように憲法を改正したのです。そのおかげで、1952年からは、中国人も韓国人もどのアジア人もアメリカ市民になれるようになったのです。
そして、牧野氏と言えば、第一次世界大戦でアメリカ兵になった一世日本人たちにアメリカ市民になる道を示した人であり、日本語学校がアメリカのカリフォルニア州やハワイ属州政府によって消されようとした時に二世や一世の親のために立ち上がったハワイの日本人パイオニアのリーダーでもあります。1920年には、ハワイではすでに20,651人の二世が英語学校(ハワイの公立学校)の後、毎日日本語学校に通って「修身」や日本語を勉強していました。1920年と1923年に続けて日本語学校へ圧力をかける法令が州議会を通過しました。それに対してハワイ属州政府を相手に訴訟を起こし、アメリカ最高裁判所にて1927年に勝訴し、日本語学校や他の外国語学校の権利を守ったのです。もっと、移民初期の時代、1885年にすでにキビ畑で労働契約違反をめぐってハワイ島パパイコ耕地で仙台出身大槻幸之助ほか15名がストをしています。
さらにハワイの一と二世たちは、ハワイをアメリカの州にしたくなかったアメリカ議会を動かして、1959年(昭和34年)にハワイを50番目の州にしたのです。東洋系市民が多いために立州は不可能と思われていたハワイをアメリカ合衆国の州にしたのです。州になるや、合衆国下院議員に井上ダニエル健氏が、ハワイ州議会上院議員、25名中13名、下院議員、51名中22名が二世議員になった。1961年には、米国上院議員に井上議員が下院には松永スパーク正行氏が当選し、ますます、アメリカ議会へバイリンガルの二世たちが進出してアメリカ改善の原動力となっていった。
